無敵囲い事件第10話「歩と珠姫の過去」

 瀬川歩と葉月珠姫は、かつて奨励会で共にプロ棋士を目指し、互いに競い合っていた。奨励会は七級から三段までで構成されており、奨励会員同士で対戦し、勝利を積み重ねることにより、徐々に段級位が上がっていくシステムになっている。そして、見事、三段から四段に昇進し、奨励会を抜け出すことが出来た者だけが、プロ棋士を名乗ることが許されるのである。

 幼き日の二人は才能に満ち溢れ、歩が小学六年生の頃、珠姫が中学一年生の頃、二人は三段にまで昇りつめていた。

 三段の奨励会員は三段リーグというリーグに所属し、三段リーグでは、リーグ戦形式で、半年を一つの期として、一期十八戦の対局が一年で二回行われる。そこで、各期の一位と二位の者だけが四段に昇進、つまりプロ棋士として認められるのである。

 十八戦目、最終戦を前にして、歩は十六勝一敗、珠姫は十四勝三敗の成績を収めていた。歩は驚異的な成績で単独一位を確保し、最終戦を残して、既に四段昇進が決まっていた。一方、珠姫は十四勝三敗という優秀な成績だったが、同順二位の状況であり、珠姫と同成績の者が他に二人いた。

 最終戦で、もし珠姫が負ければ四段昇進が一気に遠ざかることになる。次に開催されるリーグでは、今のような優秀な成績を収めることができるかはわからない。

 当時、中学一年生だった珠姫は焦っていた。二人でずっとここまで頑張ってきた。珠姫は、何としてでも、歩と同時にプロ棋士になりたかった。ゆえに、次の試合に負けるわけにはいかなかった。

 幸か不幸か、運命のいたずらか、珠姫の最終戦の相手は歩だった。負けることが許されなかった珠姫は、あらゆる真剣勝負おける禁じ手に手を染める――八百長という、あらゆる者から唾棄され、批難される禁じ手に……。

 精神的に追い詰められていた珠姫は、最終決戦の前日、歩にわざと自分に負けるように、涙を流しながら懇願した。そして、歩はそれを断らなかった。

 無理もない、彼はまだ小学六年生である。確かに、八百長という不正行為を犯す罪の意識は彼の中にはあっただろう。しかし、そんな罪の意識も、幼馴染で大好きな珠姫と一緒にプロデビューを果たしたいという願望の前では、何ら意味を持たなかった。

 そして、歩と珠姫は最終戦で八百長を行う。できる限り、不正が露見しないように、あからさまな悪手を放たないように、歩は心がけ、あくまでも実力で負けたように見せるために、絶妙な負け方をした。

 しかし、何人ものプロ棋士が見守る奨励会の最終戦で、それが見逃されるはずがなかった。特に、歩の師匠であり、その日に歩のプロデビューを祝うために、対局を見学していた、神原吾郎九段の目をごまかすことはできなかった。

 神原九段は歩の指し方にわずかな不自然さを感じ、対極の終了後、歩を呼び出し、自分の感じた、その不自然さについて問いただした。歩の指し方を知り尽くした師匠だからこそ、対局にわずかな違和感を嗅ぎとったのだろう。

 神原九段の迫力に押され、また罪悪感も薄かった歩は八百長について、師匠に打ち明けた。彼はその時でもまだ自分のしたことの愚かさを自覚していなかった。

 八百長の話を聞いた神原九段は怒りをあらわにし、歩を厳しく叱責した。

「お前のしたことは、過去、現在、未来において、将棋に自分の人生全てを注ぎ込んだ棋士への背信であり、何より将棋自体への冒涜である」

 歩は師匠に言われたこの言葉を生涯忘れることはないだろう。その時になり、ようやく幼き歩は自分がしたことの愚かさに気付き、泣きながら神原九段に謝罪したが、神原九段は不正行為に手を染めた歩のことを決して許しはしなかった。

 歩と珠姫の八百長は公になることはなかったものの、神原九段は珠姫の師匠に全てを伝え、二人を奨励会から退会させ、歩と珠姫を将棋界から永久追放したのである。

 その後、歩は失意のうちに、家庭の事情で引っ越すことになり、珠姫と共に過ごした郷里を離れ、二人は疎遠になった。

 歩と別れてから、珠姫はずっと自分のしたことを後悔し続けてきた。自分のせいで、彼から、彼の全てとも言える将棋を奪ってしまった。彼女の胸にはただただ自責の念が積もった。

 そんなある日、歩が高校を進学するために、郷里に戻ってきた時、珠姫は歩と再会する。珠姫はようやく贖罪の機会が訪れたのだと思った。

 しかし、かつて不正行為に手を染めた歩は、将棋部という真っ当な部活に入ることは許されない。将棋探究部とは、将棋を誰よりも深く愛しながらも、将棋界を永久に追放された歩のために、将棋と少しでも触れ合ってほしいと、珠姫が作り上げた部活なのである。

 以上の経緯があったため、珠姫は歩の将棋への愛情を利用して、彼の気を惹こうとした鈴原を許すことが出来なかった。彼女が尽く鈴原に嫌がらせをし続けたのは、それが理由だったのである。

第11話「その後」に続く


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